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「Fマイナーのブルース」を少し紹介します
  初期の作品です
 

「Fマイナーのブルース(1970年代の回想)」    

 

  1遭遇  (フライ・ウィズ・ザ・ウィンド- マッコイ・タイナー)1976年10月

 

  俺があいつと初めてであったのは、「DIG」という名のJAZZ喫茶。

  新宿の裏通り、迷路のような階段を上がっていくと古い扉に突き当たる。「JAZZ SPOT  DIG」と小さく書かれたありきたり木戸。その裏にある世界があるのか、その日も、俺は楽しみにしていた。

  俺は今まで同じようないくつもの扉を押してきたが、その裏にある世界は全て異なっていた。その日も、どんな世界が扉の裏に隠されているのか、俺は少し興奮しながら扉を押した。

  褐色の世界が広がった。古びたチョコレート色のテーブルとイスに、裸電球の淡い光がマッチしている。壁にはめ込まれた重いスピーカーからは、マッコイ・タイナーのサウンドが洪水となって溢れ出している。その黒いスピーカーを背にして、あいつは座っていた。

俺の視界の中で、一人で座るあいつのテーブルだけが、はっきりと映し出されていた。俺は静かに進み、あいつの正面に座った。

  あいつは半ば上を向き、目を閉じ、頭を左右に振りながら、サウンドの中に溶け込んでいる。俺が眼前に座っても、何ひとつ表情を変えようとしない。

  やがて、ウェイトレスが、コーヒーを運んでくる。俺はその時気付いた。この部屋に居る女は、ウェイトレスと、あいつだけ。俺はあいつの顔を凝視した。だが、あいつは何一つ気にかけていない様子だ。裸電球の光で、栗色に光る長い髪、薄緑のアイシャドー、あどけなさが残る唇。すべてが、ミディアム・カラーの光を放っている。黒いジャケットの谷間に光るネックレスは、『ハート』と『十字』を組み合わせた幾何学的な形をしている。

  コヒーカップを握ると、テーブルが妙に狭い事に気付いた。俺は再びあいつの顔をみつめる。その時、俺の目とあいつの目の間にはほとんど空間が存在しない事に気付いた。それでも俺は、あいつの閉じた目をみつめた。すべての神経を集中させた。俺はあいつに、熱い何かを伝えたかった。俺の脳味噌に映るあいつのハートはガラスのように透明で、氷のように冷たい。俺は、透明な氷を燃える炎で溶かしたかった。

  しかし、彼女の精神には何の変化も起こらない。精神を集中したところで何が起こるというのか。心と心が通じるはずが無い。ただ、なにかをやってみたかっただけだ。あいつに何も伝える事が出来ないとわかっていても、俺は、あいつの閉じた目をじっと見詰めつづけた。

  マッコイ・タイナーの「フライ・ウィズ・ザ・ウィンド」にも、終わりが来るらしい。

やがて、スピーカーからのサウンドが消滅しする。あいつは、ゆっくりと瞼を動かす。そして、俺の目とあいつの目は、沈黙の中に時間を固定した。あいつの視線は、俺の視線から外れ、しなやかな手は、テーブルのタバコを取り上げた。俺は、あいつから一本のタバコを受け取り、同時に二本のタバコに火をつけた。その時、俺の額は、あいつのぬくもりを感知した。

  再び、音の洪水が溢れ出した。あいつは目を閉じ、俺は閉じた目を見つめている。閉じられた瞼の間の、ほんのわずかな隙間から、時折、きらり輝く光線が放たれた。

  俺は、冷めたコーヒーを飲み干し、席を立った。階段を降りた。俺の鼓膜が、あいつの足音を捕らえた。裏通りに出た。振り返った俺の目の中で、何一つ表情を変えないあいつの映像が拡大していく。あいつは立ち止まり、静かに俺を見上げて微笑んだ。微笑みが無表情に変わる時、緩慢な動作で、あいつは俺から離れていった。黒い後ろ姿は、俺の視界から遠ざかっていった。霧の中に消えていく妖精のように。

 

  2黒く塗れ(PAINT IT BLACK - ローリング・ストーンズ)

 

  アパートのドアを開こうとすると、ロックン・ロールに似た軽いリズムが耳を捉えた。ストーンズのようだ。

「ジュン、来てたのか?」

  ジュンは、俺のベッドの上で、膝と顎が擦れるほどに体を丸めてうずくまっていた。俺に気付くと、アンプのボリュームを絞って、微笑んだ。

「どこ行ってたの?」

「.....」

「何か食べる?」

「いらないよ。」

「何か食べてきたの?」

「ブレンド・ コーヒーをね。」

「馬鹿ね。コーヒーばかり飲んでるとまた体こわすわよ。」

「.....」

「入院しても知らないからね。何か食べなさい。」

そう言いながら、ジュンは食事の仕度をし始めた。

  俺は、アンプのボリュームを上げ、ベッドの上に寝転がった。俺は、最近のストーンズを良く知らない。多分、ジュンのレコードだろう。単調なリズムの中で、ミック・ジャガーが叫んでいる。「諸君!音楽はすべてを素晴らしくする.....。」そんな言葉を、叫んでいる気がする。

  俺は、今日は、一人になりたかった。「ジュン、今日は帰ってくれないか。俺は、一人になりたいんだ。」そんな、わがままを言おうとした。口をモゴモゴさせたが、ストーンズのサウンドにインターセプトされて、俺の微かな声は掻き消されてしまった。立ち上がって、アンプのボリュームを下げようとした。しかし、台所で忙しそうに動いているジュンの姿が、俺の体を麻痺させた。

「いったい何してたのよ。今日は何の日か知ってる。ストーンズのニュー・アルバム買ってきたから、二人で聴こうと思って。持ってきたのよ。ほら。もう三回も聴いちゃったんだからね。独りで。」  

「俺は別に聴きたくないんだけど...」                         

「あら、冷たいのね。どうしたのよ。ストーンズよ。あれほど好きだったじゃない。せっかく買ってきたのよ。」

「昔のストーンズさ、俺が好きだったのは。最近はストーンズも聴いた事が無いから。何が流行ってるのかも知らないのさ。」

「じゃあ、聴いてないからじゃない?最近のストーンズも最高よ。聴いてみたら?」 「どうでもいいけど、もう終わっちゃたぜ。」     

「聴かないんなら、もういいわよ。」

「俺はキャンディーズの方がいいんだ。ハッハッハッ。」そう言ってテレビのスウィッチをつけた。ローティーン向けの番組でアイドル・グループが踊りながら歌っている。ビートルズの名前をもじったグループだ。」

"ずうとるび"じゃない。江藤くんって可愛いわね。」

  そう言いながら、ジュンは手を休めて、台所からテレビを覗きに来た。」

"ずうとるび"で思い出したけど、最近の子供っていうのは俺達の頃とは違うんだなあ。この前、公園でね、小学生が遊んでたんだ。歌手の名前をどれだけ言えるかって。四、五人いたんだけどね。おもしろそうだから、ちょっと聞いてたんだ。一人が得意そうに、"ずうとるび"と、言ったんだ。すると、次の子はビートルズと言ったんだ。だけど、他の子達は知らないって言うんだよ。そのうち一人が、得意そうに、『俺、ギャートルズなら知ってる。外人なんだから。』だってさ。他の子達もみんな、『知ってる、知ってる』だもんな。世の中、変わったんだなあ。」

「そんなもんよ。小学生は、ビートルズも、ストーンズも知らないわよ。最近は、大学生でも、イエスタディってカーペンターズの曲だって平気で言う人もいるくらいでしょう。」

俺は、しばらく何も考えずにテレビを見ていた。キャンディーズが、恋の歌を歌い始めた。あの少女達は何を考えて歌を歌っているのだろう。やがて自分達が操り人形のように踊らされている事に気付くのだろうか?その事に気付いた時、少女達はやはり歌い続けるのだろうか?それが私達だと言い聞かせながら。

「さあできたわよ。」

ジュンが楽しそうな声を出した。ジュンは何かを食べている時が一番楽しそうに見える。

「ストーンズってサー。昔はサー...」

ジュンは、口をモゴモゴさせながら言った。

「もうストーンズはよそうぜ。」

「......」

ジュンは黙って食べ始めた。ジュンは独りになった。ジュンはジュンに帰った。自分自身に戻った。黙って食事をしているジュン。そんなじゅんを見ていると、無性に抱き締めたくなった。

「ジュン、今日...帰る?」

「今日は、帰るわ。」

 

  3再会(エアジン-ソニー・ロリンズ)

 

  俺が始めてあいつと出会った日からひと月以上たって、秋風がますます俺の心に凍み、人込みのぬくもりが恋しくなる頃、俺は再びあいつを見た。

  透明な冷気が街を襲う。街は、寒さに負けた証に、自分自身をくすんだミルク色に包み込んでいた。そんな枯れた日の午後、俺はすべの物を忘れたかった。すべてを忘れるために俺は街へ出る。醜悪なる街へと。汚れたコンクリートの塊も濁った空気も、季節に包まれ、冷たい透明感を帯びていた。あても無く歩く俺を、存在の矮小さを嘲り笑いながら、漆黒の闇が背後から追い越していく。

「まだ時間がある。」

左手で雑誌をめくりながら考えた。

「歌手なんて時間どおりに来るはずが無い。歌手が来る前にバンドだけで数曲は演奏するだろう。」

そんな事を考えながら、JAZZ雑誌の頁をめくった。俺の目の動きを止める言葉は何も載っていなかった。

  小さな書店で時間を潰した。馬車道についた頃には、透明な黒い空が冷たい街を覆い尽くしていた。映画館のある交差点を左に折れて小路に入った。通りまでピアノの音が響いている。その音源に向かって俺は進んでいく。ピアノの音が大気に共鳴して一段と大きくなる場所があった。「安田南+田村博3只今演奏中」と白チョークで書かれた素朴な看板がそこに存在した。

  洞窟のような入り口を通過して、果てしなく天まで続く錯覚を与える長い階段を登り詰めると、我々が天国と信じている天上世界は実は地獄なのだという暗示にかかった俺が、薄暗い異次元的な空間に、我を忘れて立っていた。頭の中で、レッド・ツェッペリンの"STAIR WAY TO HEAVEN (天国への階段)"が流れている。ピアノの音が幻聴を掻き消すし、俺を現実へ連れ戻した。居心地の悪い場所だ。眼前にドアがある。ダンジョン(迷宮)の出口の如く安堵感を与えてくれるドアを開いた。俺は、その裏にある暗黒の世界へ吸い込まれていった。

「オーダーを。」

  まだ、高校生に見える若い男が待ち構えていた。

「水割り。」

と、答えて金を払った。

  予想どおり、ヴォーカリストはまだ来ていない。ピアノ、ベース、ドラムスが、霧のように空間を漂うバラードを演奏している。左サイドの前よりの席について、壁にもたれながらピアニストの顔を見た。ピアニストは、目を閉じ、自らの生み出す波長の中に自分自身を溶け込ませていた。快感のあまりに恍惚として鍵盤を叩いている。ベーシストは、まだ若かった。その童顔に、何者かに対するリラクタンス(不承)を浮かべながら、巨大なベースに支配されたパペット(操り人形)のように、手を動かしていた。

  俺は、男がテーブルに置いた水割りを口に運び、ヴォーカリストが来るのを待った。タバコの煙でミスティなった空間を、視点が少しずつ滑らかに移動する。スローモーション・ピクチュアのように。突然、ある一定の位置で視点は移動を止め、映像が固定された。

  俺の視神経が、「あいつ」を感じている。あいつの姿が、俺の眼球に映っている。空ろな眼差しは、空中の一点に向かっている。かなり酔っている。俺の眼は、そんなあいつの姿を捉えている。あいつの周囲の空間だけがスポット・ライトを浴びて浮き上がっているようだ。

  俺はあいつを見つめた。あいつは舞台の上のアクトレス(演技者)。俺は一人の観客。俺は、劇の虜となって、しばらく茫然と舞台を眺めていた。あいつの演じる劇は喜劇でも悲劇でもない。それは、アンニュイでシリアス(深刻)なパントマイム。退屈そうに自分自身に微笑みかけている。自分の世界を創り出し、俗人を魅了する。俺を金縛りにかけた。シートに釘付にされたまま、自分が身体から抜け出していく感覚を覚えた。

  店が混んできた。俺は、OLか学生か区別のつかない女性のグループと、中年である事を隠す努力などとは縁の無い服装をした男女に囲まれて、身動きが出来なくなった。その時、一定の方向に視線を集中している事が、周囲の人間達に好ましくない感情を与えている事に気付いた。俺は現実のステージへ眼を移した。まばらに拍手が起こり、ヴォーカリストが紹介されている。このヴォーカリストの体からは、想像した以上に人間の臭いが感じ取られる。アフロ・ヘアーでも、ドレッシーな格好でもない。ショート・カットの髪。そして、ベルベッティーンのジーンズがスリムな身体をさり気なく包んでいる。人生の遍歴が刻まれた彼女の顔面からは、過去の憂いさえ放たれている。

  デイ・バイ・デイと彼女は歌い出した。その声はジャズ・ヴォーカリストとしては珍しく、少女のようなあどけさと、オペラ歌手のような透明感を持っていた。彼女は歌いながらタバコを吸う。まるで、ボンドを吸うように心地良さそうだ。ピアニストは、彼女を横目で見ながら、自分のピアノに陶酔する。

  俺はしばらくの間ステージを見ていたが、

強い誘惑をもたらす魔力にいつしか魅了された。自分の目にだけ映る幻惑のステージへ眼を移した。しかし、スポット・ライトの中にアクトレスはいなかった。雑然としたテーブルがスポット・ライトに照らされて、空虚の中で劇の終わりを告げているだけだった。

  テーブルが俺に囁いた。「もう劇は終わったんだよ。早くおかえり坊や。」

  思考能力を奪われた脳の残像に沈黙が襲いかかってくる。しかし、その沈黙は、一陣の風が吹く如く、視界を右から左へと過ぎ去り、まもなく、俺の思考回路は修復された。

  あいつは、俺の視線に気がついて、俺を避けたのだろうか。いや、そんな存在であるはずがない。テーブルの上には、ボトルや灰皿がまだ残っている。今、去っていったばかりなんだ。俺のからだの仲に、焦燥感が込み上げてきた。まるで、沸騰する熱湯に上がる湯気のように。ヴォーカリストがバイ・バイ・ブラック・バードを歌い終わるのを待った。カナリアのように清んだ歌声が途絶えた。

 俺は席を立ち、出口へ向かった。あいつのいたテーブルには、空のボトルと吸い殻の溢れた灰皿、紅く汚れたグラスと溶け出した氷、そして、マッチが乱数表の数字のように雑然と並んでいる。テーブルを横切る瞬間、俺の右手は、オートマティックにマッチをつかんだ。そして、それを右ポケットへ突っ込んだ。それは瞬時の出来事であった。しかし、俺の脳は、ひどく時間をかけてそれを認識した。突然、時間の回転が低速になり、俺の体は、スロー・モーション・ピクチャーのように緩やかに動き、手はまるで危険物でも摘み上げるかのように慎重に動いた。

  階段を下りながら紙製のマッチを取り出した。中を開いてみると、マッチ棒を数本ひきちぎった隙間から、文字がのぞいている。裏側に何か書いてあるのだろう。

  "(12―2 )P.M.  ア イ "まるで暗号だ。

いったいどういう意味なんだろう.十二月二日の午後とでも言いたかったのだろうか。十二月二日までにはあと十日ある。そんな事を考えている間に、表へ出ていた。あたりを見回したが、人影はない。あいつは闇夜へ消えてしまったのだろう。出来る事なら追いかけていきたかった。あいつの行くところへ

...駅まで歩いてみたが、あいつはもういない。

 俺は帰る事が出来ずに、しばらく夜の街を歩き回った。しかし、十一月の夜は冷たい。体が冷気に負ける前にシェルターを捜した。

静かで暖かい小さなスナックで、オン・ザ・ロックを啜った。氷は透明だ。氷が溶けるにしたがって琥珀色の海に透明な炎が輝く。冷たい炎だ。

 ポケットから、マッチを取り出してみた。"(12―2)P.M. アイ"十二月二日の午後か。あと十日ある。"アイ"とは何だろうか。喫茶店の名前か?あいつの名前か?それとも、LOVE と言う単語なのか?いや、あいつだけにわかる記号―要するにただのメモだろう。次々と疑問が、マッチの上に浮かびあがる。

  そもそも、あいつはどうしてこんなものを残したのだろうか?マッチに伝言を残すんて、昔見た白黒映画の主人公になった気分だが、別に不自然でもない。マッチをメモに使う事は、日常生活の一部と言ってもいいだろう。しかし、"(12―2)P.M.アイ"ではいったい何を伝えたいのか不可解だ。もし、第三者に何かを伝えたいのなら、電話番号ぐらい添えてもいいはずだ。本当に俺に何かを伝えたかったのだろうか?気まぐれな落書きかもしれないじゃないか。しかし、あいつが俺の視線を意識していた事は確実だ。とすると、俺に対する目元考えて良いはずだが...

 アパートに帰ってからも、メモの事が頭から離れなかった。「アイ」とは、やはり喫茶店の名前だろう。さもなければ、あいつの名前に違いない。いずれにしろ、明日調べてみればわかる事だ。

 ウィスキーでぼやけた脳細胞は、眠りの渦の中に巻き込まれながら、最後の力を絞り出して、思考の世界にとどまっていたが、眠りの海で泳ぐ事はヘドロの上で泳ぐようだ。自由が利かず、意識はぐんぐんと果てしない海底へ向かって沈んでいった。

  翌日、俺は電話帳を調べた。「アイ」と言う名の店を捜す事は簡単だ。電話帳の最初の数ページをめくればいい。

  しかし、そんな予想は根底から覆された。「アイ」と言う名の喫茶店など一軒も載っていない。こんなありふれた名前の店が。東京にも、横浜にも、一軒も無いのだ。

  俺はいったいどこへ行けばいいのだろう。あと九日のうちに、俺の行くべき場所を捜さなければならない。しかも、たとえ場所が判ったとしても時間が判らない。午後と言っても十二時間ある。零時から12時まで。

  「(12−2)P.M. アイ」 しかしながら、この奇妙なメモは俺を当惑させる以上のものを持っている。ただの気まぐれな落書きであって欲しくない。俺は何かを思い出したような気分になった。忘れていた遠いかなたにある大切なものを。遠い昔の世界へ帰れるような気がした。この乾いた埃っぽい茶色に煤けた都会の向こうに何があると言うのか。静かで、冷たくて、どこまでも透明な世界。永遠の世界へ、この一片のメモが誘っている。そう信じたかった。

  時間は何よりも冷酷だ。何の進展も無く、九日間が過ぎてしまった。自動巻き時計の四角い窓から2という算用数字が顔を出している。銀色の短針と長針は百二十度の角度を作っている。十二月二日午後四時。決断の時が来た。

 あいつは何処にいるのだろう。街のどこかで待っていると俺は信じたい。どこだろう。

  時間は何よりも雄弁だ。「アイ」が場所を示していないと断定するのに言葉は要らなかった。

  考え得る場所。まず、第一にあいつがメモを残したエアジン。第二にあいつと初めてであったディグ。俺とあいつが共有した空間は他には無い。そんな、スローな思考とは裏腹に、俺の足はもうエアジンに向かって歩き始めていた。

  エアジンに入ると俺の足は自動的にあの日あいつが座っていたテーブルに向かった。脳の思考回路が入ると、入り口に視線を固定して座っている自分が居た。入り口のドアに注意を払いながら待ち続けた。あとは時間との戦いだ。

  七時。あいつは来ない。もう何本タバコを吸っただろう。グラスのアルコールは減らない。わずかに蒸発をしているだけだ。灰皿の吸い殻が虚しい。

  七時三十分。あいつはまだ来ない。ディグへ行ってみようか?いや、もう少し待ってみよう。

  八時。来ない。ディグへ行こう。だめだ。あと十分待とう。そうだ、あと十分だけ待とう。

  俺の耳は、その機能を失っていた。誰がステージで演奏しているのかわからない。なんの曲をやっているのかもわからない。ジャズなのか、ロックなのか、ソウルなのか、何がなんだかわからないし、そんな事はもう、どうでも良かった。俺が今、係わり合いを持っているのは、冷酷な時間だけだ。どこまでも透明な無限の時間が、俺を虫けらのように扱う。しかし、俺は冷淡な時間に挑戦する。限りなく挑戦する。長い長い十分間が、音を失った空間の中で、静かに過ぎ去っていく。

  エアジンから関内駅までは五分とかからない。駅の階段を登り詰めると京浜東北線の青い車両がホームに滑り込んでくる。いいタイミングだ。俺は青い車両に飛び乗った。

  一秒でも早く新宿につきたい。そんな思いが脳を支配した。どうすれば一番早く新宿に着く事が出来るだろうか。関内から新宿へ行くルートは様々だ。理科系クラスの数学のように、思考プロセスに選択の余地がある。

  関内−横浜間は、京浜東北線か横浜市営地下鉄、いやもう一つ桜木町で東急東横線に乗り換えるという選択も可能だ。俺はすでに京浜東北線に乗ってしまっている。残された選択は、京浜東北線で直接横浜へ出るか、桜木町で東急東横線に乗り換えるかのどちらかである。もっともこの選択は東横線を利用する場合にのみ可能な選択であって、東横線を利用しない場合は、桜木町で横浜市営地下鉄に乗り換えるのと同様に、暇つぶし以外には意味の無い選択となる。桜木町から横浜まで東急東横線に乗り、横浜から東急東横線を利用せずに渋谷まで行く事になる。これでは桜木町、横浜と、二回乗り換える事になり、いたずらに乗り換え回数を増やす事になる。

  もし東横線を利用するなら、東横線は桜木町始発だから、桜木町で乗り換えても、横浜で乗り換えても、同じ車両に乗る事になれば渋谷までの時間はまったく同じになる。そうなれば、問題は乗り換え時間である。乗り換え時間が短ければ、ひとつ前の車両に乗車出来る可能性がある。乗り換えに時間を要しない駅はどちらか。桜木町駅と横浜駅を比較すると、当然桜木町駅を選ぶ事になる。横浜駅の混雑と、乗り換えに要する歩行距離を考えると、桜木町で乗り換えた方がよりスムーズだ。しかし、もう一つのファクターがある事を忘れてはならない。移動時間だ。桜木町−横浜間をより短い時間で移動出来るのはどちらなのか。東急東横線か京浜東北線か。

  その時、思考を遮るように京浜東北線の扉が開いた。判断を下す前に電車は桜木町駅に着いてしまった。この駅で降りて東横線に乗り換えるべきだろうか。あるいはこのまま横浜へ出るべきだろうか。決断が出来ないまま車両の扉は締まって、俺を乗せたまま電車は動き始めた。そして、俺の目は、ひらがなで書かれた駅の名が時の彼方へ遠ざかっていくのを、虚しく捉えた。

  桜木町で乗り換えようが、乗り換えまいが、たいした問題ではない。俺は自分を慰めるように、あまり価値の無い思考を続ける事にした。

  東横線と京浜東北線のどちらがより早く横浜につく事が出来るか。東横線には横浜-桜木町間に高島町という駅がある。すなわち、桜木町−横浜間では東横線の方が京浜東北線よりわずかに時間がかかる事になる。最初のファクターである乗り換え時間を考え合わせると、互いに相殺しあって、乗換駅の選択は、ほとんど意味をなさない事になる。

  思考は感情を制御する。価値の無い思考を続ける事で、感情の昂ぶりを抑える事が出来る。横浜から新宿までは、渋谷経由と品川経由が考えられる。渋谷経由は東横線利用。品川経由は、京浜東北線、横須賀線、東海道線、京浜急行線利用が考えられる。品川経由の中では、東海道線利用が最も早い。しかし、俺は今京浜東北線に乗っている。京浜東北線ならば、品川へ直行する事になり、横浜で乗り換える必要はない。乗換駅が一つ減る。東海道線にせよ、京浜東北線にせよ、品川- 渋谷間は山手線を利用する事になる。

黄緑色をした山手線の速さはおおナメクジのようだ。結局、東横線利用、渋谷経由の方が遥かに速いと思われる。

  俺は、横浜、渋谷乗り換えの東急東横線利用を選んだ。東急東横線に特急は走らない。各駅停車か急行か。シンプルな選択だ。急行に乗ると、横浜- 渋谷間は三十分程度だ。しかし、急行が頻繁に走っているだろうか。急行に乗れなかったなら、俺の選択は間違っていたかもしれない。

  規則性と不規則性を両立させるために並べた駅の時刻表。その数字の中で、条件に合ったものが存在するかどうかが問題である。二十時三十四分。20と34の二つの数字の組み合わせ。このマトリックスが急行という条件を充たしながら存在している。

  二十時三十四分、俺は銀色の車両に飛び乗った。そして、この銀色に輝く箱の内側で、俺は三十二分間、時間のプリズナーになった。

  時間の囚人を乗せた空間は渋谷に向かっている。急行?そうだ、急行なんだ。急行は桜木町−横浜間にある高島町駅には停車しない。俺は選択を誤っていたかもしれない。もう遅い。過去の事だ。どうでもいい。俺に過去は必要ない。俺にとって過ぎ去った出来事など無意味だ。今どう存在するかが俺にとって重要だ。それに、この選択が誤りだったとしても、誤差として考える事が出来るほど微妙な事柄だ。些細な事だ。もうどうでもいい。人生は時間のプリズナーなのか。俺は解放されたい。自由になりたい。

  無意味な三十二分間が過ぎ去った。急行電車は終点の渋谷に着いた。人の流れに押され、いつのまにか山手線のホームに立っていた。黄緑色の車輌が流れるように入ってきた。

 

  捜索 (ディグ−マイルス・デイビス)

 

  ディグの階段を上り始めた時、腕時計の二本の針は、九十度の角度を作ろうとしていた。

3と9。この数字は幻想をもたらす。0と6との組み合わせによってはヴァーティカル(垂直)もレベル(水平)も思いのまま。

  あいつは本当に来るのだろうか。そう信じる以外の思考は存在しない。ディグという場所が、"(12―2)P.M.アイ"という一片の奇妙なメモから俺の脳味噌が弾き出し得る最後の場所なのだ。

  扉を押して部屋の中にはいると、一面にサウンドの世界が広がっている。俺は入り口の見える一番奥のテーブルに、スピーカーを背にして座った。背後から流れてくる大音量のニュー・ジャズは俺に恐怖感を抱かせる。この聴覚刺激による生理的な恐怖は、「あいつが居ない」という俺の体内に生じたもう一つの恐怖と溶け合って、もっと大きな恐怖の複合体となってスピーカーから俺に叫びかける。

「あいつは来ない!あいつは来ない!」

 恐怖はそう叫びながら、高速度撮影のフィルムを見るように、急速に増大して俺の周りを取り巻いた。目を閉じた。耐えられなかった。恐怖は絶頂に達した。そして、次の瞬間、急速に消滅していった。

 曲調は、静かなバラード風に変わる。そして、誰かが近づいてくる気配を俺は感じた。閉じていた目を開けると、あいつではない他のヒューマノイドが瞳の中に映った。オーダーを取りに来たウェイトレスの姿だった。

 「ホット」と、奇妙な日本語を発音すると同時に、俺は腕時計を見た。腕時計の短針と長針が重なり始めている。「あと十一分で十時か。」

 その時、俺の頭の中を閃光が走りぬけた。「十時じゃないか。どうして気付かなかったんだろう。十時じゃないか。あいつは必ずやってくる。十時だ。」

しかし、その瞬間黒い影が俺の頭上に覆い被さった。俺は自分の失策に気付いた。「十時にやってくるとすればやはりエアジンだろう。」俺は、絶望の谷底へ落とされた。場所を指定していない以上、あいつがメモを残したエアジン以外に考えられない。

 無造作に、ウェイトレスが熱いコーヒーを持ってきた。俺はもう一度マッチを開いてメモを見た。"(12―2)P.M.アイ"

  マッチをポケットに突っ込もうとした時、自分自身を嘲る笑いが腹の底から込み上げてきた。

  マッチにはDIGと印刷してあるのだ。メモの内容に注意を払いすぎていたので、俺は、それがディグのマッチである事に気付いていなかったのだ。

  "(12―2)P.M.アイ"パーフェクトなメッセージだ。俺は無意識に笑い声を上げていた。日...十二月二日、時...(1 2 - 2)P.M.=1 0 P.M.すなわち午後十時、場所...ディグ、そしてアイはあいつの名前。気の利いたメモじゃないか。笑いが再び込み上げてきた。

  マッチをポケットに顔を上げると、俺の嘲笑が確認された。俺の視界の中にあいつの姿が現れて、少しずつ、少しずつ近づいてくる。まるで無限の彼方からやってきたように。

  「アイ」俺はつぶやいた。俺はもうあいつの名前がアイである事を確信していた。俺の目にはあいつの姿がほとんど静止しているように映る。しかし、アイの姿はかすかに、かすかに近づいてくる。アイの顔にほほえみが生じ、微光となって空間に発散されていく。アイの姿が薄明に現れた陽光のように輝き始めると、暫時の沈黙を破って、まるで崩壊した直後のダムから流れ落ちる水流のように音のエネルギーがスピーカーから解放された。大音量の中で、アイはテーブルの前に静止した。

 俺がコーヒーを飲み干して立ちあがると同時に、アイは振り返ってドアの方へ歩き始めた。俺はカウンターに百円硬貨三枚を残してあとを追った。

 アイと俺はあまり広くない比較的静かなパブに入った。眠らぬ街中でも日常生活を送る人間にとっては遅い時間らしく、客は少なかった。カウンターに座ると、バーテンダーがボトルを取り出して水割りを作り始めた。アイのボトルがキープ、されていたらしい。言葉を捜した。しかし言語を喪失したのか、話すべき言葉は何も見つからなかった。だだ、アイの瞳を見つめていた。しばらくして俺の声帯がようやく発した日本語は、「アイ」という最も簡単な母音の連続であった。あいつは俺の顔に視線を投げかけ、余裕のある微笑みを浮かべた。「やはり、『アイ』という名前だったんだ。」胸の奥、俺の声帯よりもっと下、体の奥底から安堵の声が聞こえた。

  左手に肌より低いウィスキーの温度を感じながら、俺は、アイの黒い姿が放つ霊気に魅了されている。アイは一言も喋らない。俺には、アイが喋るなんて信じられない。アイのまわりには、独特な霊気が漂っている。俺は何も出来ずにただ茫然として、あたりに漲るアイの魔力に身を委ねていた。俺はグラスに注がれた褐色のアルコールを胃の中に流し込んだ。

 アイはウィンストンを俺に勧めた。俺はウィンストンが嫌いだった。躊躇する俺の顔を見て、アイは再び微笑んだ。まるで子供に対する優しいいたわりを連想させる微笑みだった。

 俺は酔いつぶれていった。グラス四、五杯のウィスキーで酔いつぶれる俺ではないのだが、この日はアイの魔力に負けたのか、言葉を交わさない事がアルコールの回りを早くしたのかすでに俺は意識が朦朧としていた。アルコールが俺の脳を麻痺させているのか、これがアイの魔力なのか。その後は、静止画が断片的に俺の脳に記憶されるだけだった。

 仄かな香りに包まれた柔らかなベッドの中で目が覚めた。暖かい部屋だった。日差しが眩しく差し込んでくる窓へ向かった。月面歩行のような二日酔いの足取りで部屋の中央を歩いていくと、キッチンが見えた。人影はなかった。水を欲する本能が歩く方向を変えた。グラス三杯の水を一気に飲み干し、あたりを見回した。テーブルに朝食に準備がしてある。メモが置かれている。

「君に会えたね。Yを消去するつもりだったけど、もう必要ないね。」

 夢を見ていたらしい。気が付くと三畳の和室に寝ていた。本棚にレーニン全集が並んでいる。他に何もない。引戸を開けると流しがある。台所と呼ぶには狭すぎる。使用された形跡はない。玄関ドアに鍵はかかっていない。かかっていたとしてもすぐに壊せるような粗末な鍵だ。三畳に戻って押入を開けた。蒲団と枕がもう一組ある。他に何もない。窓を開けた。見晴らしがいい。線路が見えた。蒸気機関車が貨物を牽いている。東京の下町には似合わない。第三京浜と、環七が交差している

クョスコニョ    [1] 
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続く
大人のための絵本「サザンビーチ」