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「苺川」    
                          コージー・S
 二〇〇六年八月三十一日午後二十六時、わたくしの意志は蒸し暑さに耐えかねてマルチバースの遙か彼方に位置するレプリカント惑星(複製惑星)へ旅立った。 

 相模川の下流より永池川に入る。門沢橋から永池川を横切って南へしばらく進むとバラ園に出会う。わたくしはバラ園の温室に侵入し、額の汗を拭おうとポケットからハンカチを取り出すと、白い布に苺の欠片が点々と付着していた。苺はバラ科の植物である。琥珀色のレモンティーにシナモンを加え、つぶした苺とラズベリーを入れてみよう。苺とラズベリーの粒が輝く星の花粉となりバラの花を囲む。金色に輝く星の群、白く輝く星の群、それぞれがゆっくりとグラスの中で渦巻いていく。ロシアンティーのコロイド状宇宙ができあがる。ビニールハウスの内部には「バラ星雲」が広がってゆく。

 バラ星雲は地球から四六00光年の距離にある一角獣座の散光星雲である。星雲NGC2237の中央に明るい星たちが見える。NGC2244という散光星団で生まれた若い星たちが強烈な紫外線を放ち、星雲が水素ガス特有の紅い光を放っているのだ。星雲の中心部は、散光星団からの紫外線の「風」によってガスが払われて次第に穴が開きつつある。その周りに広がるバラの花びらの中には、転々と星の卵であるグロビュールの黒いシルエットが見える。

  わたくしは、冬の思い出が溶けだしたロシアンティーをあわてて飲み干すと、ビニールハウスの外へ出た。
  中野から中河内に進むと、視界を遮る建物など何もない亜空間の外側から紅い月が足下の稲穂を照らしている。わたくしは東へ向かって両手を差し伸べ、丘の上の紅い月から流れ出るわずかな光を掬った。光がイチゴ島にあるビニールハウスを通過するとき、苺のデータを読みとり手の中に苺のレプリカを作り出してくれたのだ。零れ落ちた紅い光は苺となって足下に転がった。わたくしはレプリカントの苺をポケットに入れて東へ向かうことにした。
  南北へ向きを変える永池川をさかのぼると右岸に平原が広がる。左岸の急斜面が視界を遮る。わたくしは河岸段丘を一気に駆け上がり、ゆっくりと陵を下ってゆく。恩馬ヶ原の暗闇を照らすには、月の雫だけでは十分ではない。わたくしは平原を彷徨する。時空を越えて、賢治の種山ヶ原と海老名の恩馬ヶ原を行き来する。

  わたくしは、水沢から種山ヶ原へ向かう。赤金工業所の赤茶けた建物を右手に見ながらトンネルを二つ抜け左折して姥石峠を登る。峠を下ると、「又三郎」と「嘉助」が馬を追って迷子になった牧場だ。残丘では閃緑玢岩が月の光を反射している。いいや、闇の中でガラスのマントが光っているのだ。

  もう又三郎がすぐ目の前に足を投げ出してだまって空を見あげているのです。いつかいつものねずみいろの上着の上にガラスのマントを着ているのです。それから光るガラスの靴をはいているのです。
 又三郎の肩には栗の木の影が青く落ちています。又三郎の影は、また青く草に落ちています。そして風がどんどん吹いているのです。
 又三郎は笑いもしなければ物も言いません。ただ小さなくちびるを強そうにきっと結んだまま黙ってそらをみています。いきなり又三郎はひらっとそらへ飛び上がりました。ガラスのマントがぎらぎら光りました。

 わたくしは、あの時の嘉助のようにふと目を開く。驢庵坂を登ると、灰色の霧がはやくはやく飛んでいく。そして目の前には朽ちかけた大きな木がのっそりと立っていたのだ。

 「わしは有馬のハルニレ。大陸からやってきた。なんじゃもんじゃの木と呼ばれておる。お主は紅い果実を持っておられるな。それをひとつわしにくれぬか。」
  わたくしはポケットからレプリカントの苺をひとつ取り出し、朽ちかけた大木の太い枝に乗せた。
 「おお、これは見事な果実じゃ。わしも若い頃はたくさん実をつけたものじゃ。今はこんな姿になってしまった。わしの父、ろあん先生が生きていてくだされば、わしにもう一度実を結ばせることができたかもしれん。そうじゃ、その果実を持って東へ行きなされ。坂を下ってしばらく歩くと、目久尻川にかかる道庵橋が見える。ろあん先生がかけてくださった橋だ。橋を渡って川をどんどんさかのぼるのじゃ。国分寺の近くにカッパが住んでおる。カッパにその果実をあげてくだされ。カッパは腹を減らしておるだけじゃ。目玉をくじりとることはないのじゃ。ろあん先生なら目玉を治してくださったはずじゃ。」

  道庵橋から川をさかのぼると、理に反して水かさが増し豊かな流れとなる。春日局ゆかりの地を過ぎ、川が蛇行するにつれ左右の丘が迫る。「目にあまるほど川岸を削り取る」と言うのが「目久尻川」の本当の由来かもしれない。S字形の小さな渓谷を通り過ぎると一面に田園が広がる。城山の湧き水が多量に流入するこのあたりは、かつて縄文人が住んだ豊かな土地。丘の中腹にかけて宮久保遺跡が眠っている。
 月夜を截る水鳥に追われながら、更に進むと小園橋。目久尻川と逆川の分水地点であったという左手の山には、相模国分寺の七重塔が聳え立つ。小園橋に近づくと、水辺でくつろぐ三匹の河童像が現れた。碑文に刻まれた伝承が闇の中からほのかに浮き上がった。
  「古老の語るところによると、目久尻川は、古くは目穿川と記された。昔々、カッパが住んでいて、田畑の農作物を荒らしたので、これに困った農民がカッパを捕まいて、この目があるから悪さをするのだと言って目をえぐりとった。これが川名の由来である。」
 はっきりと浮かび上がった文字に目をとられていると、薄闇の中からミューミューと不思議な音がした。目をこすりながら音のする方へ顔を向けると、月の光を受けてぎらぎらと輝く小物体が動いている。目をこらすと、紅玉の瞳を持つガラスの猫が振り向いて、近づいてきた。そのぎこちない動きと鳴き声は本物の猫にはほど遠いが、その猫は瑠璃色の首輪にバラ水晶の鈴をつけ、あでやかな気品を漂わせている。さては賢治がよこしたに違いない。ガラスの猫は目の前を横切り小園橋へと向かった。わたくしはふわふわと後に続いた。橋を渡ると、雲間から顔出す月明かりで、やっと足下が見える急坂を、小さな生き物はいともたやすく駆け上がった。
  機械仕掛けとは言え、猫の動きは気ままなものである。どのくらい歩いたろうか、樹林を抜けると視界が開け、忽然と伽藍が現れた。中門を抜けて回廊を歩くと左手に七重塔が姿を見せる。地面の所々にはガラス玉がちりばめられている。月の雫をためたガラスの輝きがぼんやりと七重塔を照らしていた。どうもこの猫は七重塔への道案内を引き受けたようだ。右へ左へ気ままな猫の動きを追って歩き続けると、とうとう七重塔の正面にたどり着いた。
  塔の影になにやら人の気配を感じつつ、猫の後に続いて裏側へ回ると、腰まで伸びた黒髪が、つややかに月の光を受けて輝いていた。「待っておりました。とうとうたどり着いたのですね。」
 女が振り向いた。肌もあらわな上半身、首までの白粉、口には紅。しかし、目が無い。ただ、二つの白い玉が、鈍い光を放っているだけだ。
「誰かな。」
  わたくしは、おそるおそる言葉を発した。
「偲儡にございます。河童ではありませぬ。わらわのべべを返して下さいな。綺麗なべべを返して下さいな。裸でいるのは恥ずかしゅうございます。わらわの目玉を返して下さいな。わらわの両目を返して下さいな。そなたのすがたを見とうございます。」
  女は猫を抱き上げた。
「冷たい生き物じゃ。お前もわらわも冷たい生き物じゃ。」
  わたくしはポケットからレプリカントの苺を取り出した。
「あいにく衣装も目玉も持ち合わせていない。持っているのはこれだけだ。」
  わたくしは女の顔の前に一握の苺を差し出した。
「これでよろしゅうございます。」
  そう言うと女はわたくしの手の中から苺を二粒つまみあげると、自らの目の中へそれぞれを押し込んだ。苺の中でレプリカントの遺伝子が複製される。苺はいのちを得て、女の目の中で透明に輝くゲル状の物質となりドロドロと溶けだした。物質は苺苺と増殖を続け、コロイド状の紅い涙となって女の頬を染め、大地へ降り注いだ。溢れ出した紅い涙はとどまらず、二つの流れとなった。ひとつは逆川となり、国分、大谷、今里、杉久保、上河内、中河内、本郷、門沢橋、倉見、宮山の田をうるおした。ひとつは目久尻川に流れ込み、下流で相模川と合流した。

  どのくらい時が過ぎたろうか、近くでミューミューと鳴く猫の声がした。目を覚ますとガラスの猫は姿を消し、わたくしの目の前に鮮やかに彩られた「七重塔の模型」が朝日を浴びて姿を現した。
「中央公園にいたのか。」
 覚醒したわたくしは、空中都市への階段を上り、ひらひらと駅へ向かった。相模川を渡る列車の中でポケットに手を入れた。昨夜食べたデザートの欠片がハンカチに付着している。「苺」か。「毒」という字に似ているな。
 頭の中で甲高い女の声がした。
「怖くなんぞありませぬ。寂しくなんぞありませぬ。わらわがここで待っておりまする。七重塔で待っておりまする。紅い川となって待っておりまする。苺川となって待っておりまする。この宇宙は、そなたが創ったものなのですから。」
  ハンカチをポケットにしまった。
「はははははー。はははははー。」
  偲儡の白い声が鉄橋の通過音となりドップラー効果の彼方へ消えてゆくとき、車内に湿った重い空気が流れ込んできた。窓の外では深紅に染まった天の川に浮かぶゲル状の「バラ星雲」が、ゆっくりとわたくしの列車を飲み込んでいった。

  参考文献
「風の又三郎」  宮沢賢治 岩波文庫
「イーハトーヴォ幻想」  司修 岩波書店
「春にぞあらまし」倉坪智博 現代文藝社
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